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ベトナムの歴史について

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ベトナムの諸事情ベトナムの歴史

ベトナムの歴史について

簡単にベトナムの歴史を表すと、紀元前から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南アジア最古の青銅器文化として知られるドンソン文化が広がり、原始的な部族国家群を形成していた。これがベトナム民族の起源といえる。秦始皇帝以後、千年にわたって中国王朝の郡県支配を受け、中国文化の影響が深く浸透したが、完全に中国化することはなかった。一方中部ベトナムではオーストロネシア語族系統のチャム族がインド化されたチャンパ王国を形成していた。唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年に最初の民族王朝呉朝が成立、以後ベトナム人の王朝が続く。ベトナムは南のチャンパと抗争を繰り返したが、次第にチャンパを圧倒して南進し、17世紀にはカンボジア領であったメコン川流域まで併合して今日のベトナム領土が完成した。

各時代ごと分類していきますと、まず初めが
ベトナムの古代史(黎明期)になります。
ベトナムの歴史、特に古代史は、ベトナムという国だけの話よりも、そのインドシナ半島の全体の歴史を語ることになります。ベトナムの最古の人類の痕跡としては北部ベトナムのタインホア省で見つかった約30万年前の旧石器時代の石器になります。紀元前2万年頃には中期石器時代のソンビ文化の遺跡が発掘されています。その後に続く紀元前1万年頃のホアビン文化時代では農耕などの文化があったのではないかという研究もなされています。国として統治された形態の歴史が出現するのは紀元前2880年ころの雄王(フンヴォン)の文朗国が最初です。雄王の伝説は現在もベトナム人の間にしたしまれており、ベトナムの文化を形成するひとつの遠い紀元になっているのではないでしょうか?紀元前800〜300年頃にはドーソン文明が現れ、インドシナ半島からインドネシアの島にまで、そのころ作成された鳥獣模様の彫りこまれた青銅の太鼓が各地で見つかっています。このことは海を交通手段とした文明の発達が、この付近で行われていたことを示しています。インドシナ半島からインドネシアに至る海岸沿いに住む人々に共通の文化や人種が、この地域に広がっていったことを示していて、大変興味深い事と思います。

中世史(中国の支配とチャンパ王国)
ベトナムの歴史を一言で言うとなれば、支配と支配からの反抗の歴史と言えるでしょう。もともと北ベトナム地域で起こったオウラク国(紀元前258年)、その後の南越国を、中国の支配者であった漢が支配をするようになった紀元前111年から、1千年間のあいだ中国により支配され、その後も元による進行、フランスによる統治、日本軍と続き1945年の独立宣言までの長い間、支配とそこから逃れるための戦争の繰り返しの歴史だったのです。(もちろんその後にベトナム戦争が続きます)
また、ベトナムの歴史の中で、チャム族によるチャンパ王国が出てきます。137年にチャム族によって林邑(ラムアップ)国が建国されますが、これが7世紀になってチャンパ王国と名乗ります。現在のベトナムは80%がキン族で、基本的にはキン族による社会となっていますが、そのキン族はもともと北部の出身でした。チャム族は現在の中部から南部にかけての地域を広く支配していた民族で、海上交通を上手に使って交易を行い、自分たちの文化を作り上げていきました。チャム族の遺跡を眺めると、それはインドの文化であるヒンズーの影響を非常に強く受けたものであることが分かります。
紀元後938年に呉権がバクダン川で中国軍を破って、ベトナムが中国からの支配に終止符を打った後、チャンパ王国はベトナムから本格的な攻撃を受けるようになり、1400年ころその王国は衰退して行きます。現在その子孫は、山岳部で少数民族として生き延びたり、サイゴンなどの南部の地域で、昔からの祝祭を守りながら暮らしています。

中世史(中国の支配とチャンパ王国)
ベトナムの歴史を一言で言うとなれば、支配と支配からの反抗の歴史と言えるでしょう。もともと北ベトナム地域で起こったオウラク国(紀元前258年)、その後の南越国を、中国の支配者であった漢が支配をするようになった紀元前111年から、1千年間のあいだ中国により支配され、その後も元による進行、フランスによる統治、日本軍と続き1945年の独立宣言までの長い間、支配とそこから逃れるための戦争の繰り返しの歴史だったのです。(もちろんその後にベトナム戦争が続きます)
また、ベトナムの歴史の中で、チャム族によるチャンパ王国が出てきます。137年にチャム族によって林邑(ラムアップ)国が建国されますが、これが7世紀になってチャンパ王国と名乗ります。現在のベトナムは80%がキン族で、基本的にはキン族による社会となっていますが、そのキン族はもともと北部の出身でした。チャム族は現在の中部から南部にかけての地域を広く支配していた民族で、海上交通を上手に使って交易を行い、自分たちの文化を作り上げていきました。チャム族の遺跡を眺めると、それはインドの文化であるヒンズーの影響を非常に強く受けたものであることが分かります。
紀元後938年に呉権がバクダン川で中国軍を破って、ベトナムが中国からの支配に終止符を打った後、チャンパ王国はベトナムから本格的な攻撃を受けるようになり、1400年ころその王国は衰退して行きます。現在その子孫は、山岳部で少数民族として生き延びたり、サイゴンなどの南部の地域で、昔からの祝祭を守りながら暮らしています。

近代史(アヘン戦争からベトナム戦争へ)
中国とイギリスの間で起こったアヘン戦争(1840〜1842)は、ヨーロッパの列強国による東アジア支配の幕開けでした。1847年フランス軍によるダナン沖でのベトナム軍軍艦の攻撃から始まり、1862年第1次サイゴン条約によるコーチシナの割譲、1884年フランスとベトナムの間でパトゥヌル条約締結により完全にベトナムはフランスの植民地下に入りました。
1925年インドシナ南部におけるゴムのプランテーションのために20万人のベトナム人が移住させられます。このころの生活を描いた映画が「インドシナ」です。
1930年香港でグエンアイコック(後のホーチミン)によってベトナム共産党が創立します。このころからアジアにおける民族主義運動が台頭して行きます。1940年の日本軍によるベトナム進行が開始され、日本軍によるインドシナ半島支配が始まります。1941年ベトナム独立運動ベトミンが発足されます。
1945年の日本軍の降伏により、ベトミンが一斉蜂起、ハノイを占領し、9月2日ホーチミン主席によりベトナムの独立宣言がなされます。同年フランス軍によるサイゴン占領、1946年ベトミンとフランス軍の武力衝突がハイフォンで起こり、本格的なベトナム戦争へと入って行きます。1975年4月30日北ベトナム軍のサイゴン占領によりベトナム戦争が終了するまで、悲惨な泥沼の戦いが続きました。

★ 特徴的な時代の詳細 ★
チャンパ王国の歴史について

 一般的にベトナムの歴史は1400年代までは、北部のキン族の歴史がメインになりますが、(その理由は資料が豊富に残っていることにも関係すると思います)、実際のところ中部以南ではチャンパ王国が勢力を持っていました。そして、そこでは北部とはまったく違った文明を持っていました。
例えば、「南洋の浅黒い肌を持つたくましい顔つきの王と、彼に率いられる像の戦車を中心にした軍隊。港には始終中国やインドネシア、遠くはインドから商船が入ってきて盛んに交易が行われています。陶磁器や香木、象牙、美術品などの取引が港に面した問屋で行われています。王家は交易で儲けた財産で盛んにその勢力を示すための寺院や塔を建築します。また、遠く台湾や琉球から王女が嫁いできて、新しい血を王家に入れました。」私がチャンパ王国を想像するときいつもこのような姿が目に浮かびます。
遥か南のインド洋からマラッカ海峡を抜けて、マレー半島からメコンデルタ沖〜ベトナム東海岸を北上し、中国まで抜ける海上ルートが、紀元前1000年ころには出来ていました。現在ではこれを海のシルクロードと呼んでいます。中部ベトナムでは、稲作が出来ないのですが、その替わりに、黒檀などの香木、象牙、犀角などの高級輸出品を産出していました。中部ベトナムの港ではこれらを交易して莫大な利益をあげて行きました。これをもとめて中国や北部ベトナムのキン族が南下し、その勢力を撃退するために、中部ベトナムの村落がまとまって行き、村落共同体がそのうちに一人の英雄によって王国になったというのが、そもそもの王国の始まりであったと推測しますが、この辺の正確な資料はまだ分かっていないようです。
 歴史に初めて出てくるのが林邑(ラムアップ)国です。西暦137年のことです。初期の首都はハイバン峠の北、フエの近くにあったといわれています。いつのころからか、はっきりした資料は無いのですが、4世紀にはこの林邑国はインドの文化を取り入れ、ヒンドゥーの文化が盛んになりました。王はバラモン(聖職者階級)にあこがれ、遠くインドにまで修行に出かけた国王もいたほどです。チャンパで使用される言語はオーストロネシア系言語でした。中国系のキン族はオーストロアジア系の言語を使用していることから、やはり文化はずいぶんと違っていたようです。チャンパの碑文ではインド系のサンスクリット語や古代チャム文字などが使用されています。
7世紀から8世紀にかけて中国では林邑の呼び方が占婆(せんば)に変わります。占婆=チャンパの音を漢字に当てたものと思われます。875年ごろにクアンナムのドンヅオンに新政権が誕生し、インドラヴァルマン2世王が大乗仏教の寺院を建設したと碑文に記されています。林邑の時代には小乗仏教が伝わっていたらしい。このあたりはインド文化の影響といってもヒンドゥーばかりではなかったことが伺われて、面白いと思います。
982年に中国の混乱に乗じて独立した北部ベトナムが、チャンパの都に攻め込み、パラメシュヴァラヴァルマン王が殺されました。しばらく混乱が続いた後、少し南部に都が移り、ヴィジャヤが新都になります。現在のフエとニャチャンの中あたりの位置になり、重要な港のクィニョン湾をもち、豊かな平原をもっていました。
12世紀にはヴィジャヤは全盛期のカンボジアによって攻められ、属国とされてしまいます。13世紀にはアンコールトムを造ったジャヤバルマン7世の領土になってしまいます。1282年には蒙古のフビライカンに攻められます。この後1367年に元が滅びるまで、チャンパは元に対して貢物を毎年差出します。
14世紀は後半にかけて北部ベトナムとチャンパの一進一退のやり取りが続きます。北部ベトナムがヴィジャヤへ攻め入ったり,チャンパのほうがハノイへ攻め入ったりしています。しかしながら北部ベトナムで黎朝が起こると、力関係はたちまち北部ベトナムに偏より、チャンパは南へ南へと追いやられて行くようになります。1471年レタイントンがヴィジャヤを占領、これより北方をベトナムの領土とします。このときの占領で北部ベトナムはたくさんの入植者を南部へ連れてきて、南部の文化をベトナム化して行きます。南部に逃れたチャンパは、中国へ応援を求めますが、応援軍が来ることはありませんでした。16世紀から17世紀にかけての大航海時代には、ベトナムがチャム人の水夫を使って、かつてのチャンパの港であるホイアンなどで、大規模な交易ネットワークを築いて行きました。
現在のチャム族はベトナム南部やカンボジア、ベトナム中部高原地帯にその子孫を残しています。

中国による支配の始まり
 中国の韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦の戦国時代を抜けて中国の広い国土を統一したのが、秦の始皇帝でした。紀元前221年のことです。このときにナムガラとその部下チョウタに始皇帝はベトナム侵略の命を下しています。
 秦の始皇帝は紀元前259年、趙の都へ人質としてとらわれていた秦の王である楚と、趙の商人呂不韋の妾の子としてこの世に生まれます。名を政と呼びました。(政の本当の父は呂不韋だったといわれています)。政親子は呂不韋の力を借りて趙の都を脱出して秦へ戻り、父楚は王位につきましたが3年で没し、政は幼くして王位につきました。成長した政は自分が成長するまで実権を握っていた呂不韋を追い出して実権を握り、中国大陸の平定に力を注ぎ最後に彼の野望は達成されました。
 中国を平定した彼は北からの騎馬民族の襲来には万里の長城を建造して備え、南のベトナムには遠征軍を送り、支配下に置くことに決定します。実際ベトナムでは象牙や白檀などの特産品や、紅河デルタ(現在のハノイあたり)に広がる豊かな土地があり、この地方への侵略は中国にとっての大切な政策でした。 秦の始皇帝に命を受けたナムガラとチョウタは50万の兵をあづかり、ベトナムへと進攻して行きます。司令官のナムガラは遠征途中に病没してしまいますが、チョウタはそのころのベトナム国家であるオウラク国を陥落することに成功します。紀元前208年のことです。
 ところが、紀元前207年に秦の国は始皇帝が亡くなるとすぐに滅んでしまいます。この混乱に乗じてチョウタは中国から独立し、中国南部の広州南部の南海郡、桂林郡、と紅河デルタ地帯の交跡郡、九真郡の4郡を支配し、南越国を設立した。
 単純に見ると、この紀元前208年から中国のベトナム支配が始まったように思われますが、チョウタの南越国はどちらかというとベトナムよりの政府であって、その後中国本土から攻められて滅ぶという国であるため、ベトナムの歴史では南越国は中国の支配としては扱われていません。
紀元前202年に漢が中国を統一すると、漢の高祖は南越国へ直接進攻し支配するのではなく、漢の属国にしようと考えました。しかしながらチョウタは表面は従うように見せて、実際は国内で皇帝を名乗りあくまでも独立を維持していたのです。
 チョウタ死亡後は漢からの攻撃を受け、南越国は滅び中国の支配が始まります。紀元前111年のことでした。この年からAD939年に呉権(ゴクェン)によって独立が実現するまでの約1000年間、ベトナムは中国に支配され続けることになるのです。
ベトナム人にとっての中国からの支配は、とりわけきびしいものだったようです。中国から派遣されたほとんどの官僚は「不正と、残酷と、貪欲」といった言葉で形容される者ばかりでした。ほんの少しベトナム人側に立った行政を行った人物もいましたが、それは本当にごくごく少数でしかありませんでした。
 中国へ提供する税は、人頭税、土地税、労役などがあり、その他に貢物として、象牙、真珠、白檀、熱帯の果物、金銀細工などがあり、象牙を取るために何人ものベトナム人が危険なジャングル深く狩りに出されました。
 また、中国への同化政策がとられ、中国の皇帝を天子としてあがめ、絶対忠誠を求められ、公用語を漢字とし、儒教を生活の規範として受け入れることを求められました。
 同化政策とともにベトナムへ入ってきた中国文化は、水田耕作、稲の二期作、水利施設、運河や堤防、陶器の製作、レンガやタイルつくり、絹織物、竹や籐の籠細工などがあります。
 中国の支配以前のベトナムは、ベトナムの地方の土豪が自分たちの土地を治め税の収入を得て暮らしていたのですが、中国からきた官僚が直接税を取るようになると、彼らの生活が成り立たなくなります。そこで、現在のハノイの北西、メリン地方の土豪の娘チュン・チャックと妹のチュン・ニがAD40年に中国官僚の税直接取り立てに反対する65県の土豪をまとめて起こした反乱がハイバーチュンの反乱です。
 中国から派遣されきていた官僚の蘇定はこの反乱を聞くと、抵抗もせずに逃走してしまい、ベトナムはチャン・チャックを女王として独立してしまいます。
 しかし漢の皇帝、光武帝はAD42年馬援将軍に兵2万人を与え、反乱鎮圧に送り出します。馬援将軍はチャン姉妹の軍を破り再び漢の支配に戻します。破れたチャン姉妹は河に飛び込んだとも、つかまって首を切られたとも言われています。

その後も、何度も中国に対する反乱が起きます。
137年:日南郡象林県の区燐(クリェン)の反乱。この後日南郡象林県以南はチャンパ王国として独立。
178年:梁龍の反乱
248年:バ・チュウの反乱
541年:リビの反乱

 唐の時代になっても反乱は続きます。有名な阿倍仲麻呂も安南都護に任じられ、ベトナムの反乱鎮圧に一役かっています。
(阿倍仲麻呂:(701年〜770年)16歳で遣唐使として唐に渡り、唐の官僚として玄宗皇帝に厚遇される。李白などの詩人とも交流があった。753年帰国途中に暴風雨に遭い再び唐に戻る。ベトナムに反乱が起こったため、安南都護に任じられベトナムへきて反乱を鎮圧。その後長安へ戻り没する。)
907年唐の哀帝が朱全忠により殺されて唐が滅びました。その後中国は大きな混乱の時代が続き、これを五代十国と呼びます。
 917年に中国全土の混乱の中で中国南部の広州に地方権力による南漢国が設立され、930年にはベトナム北部の交州まで支配を広げます。この交州の隣県の愛州の将軍の名はズオン・ディン・ゲ(楊廷芸)で彼の子供が英雄ゴクェン(呉権)です。
 この愛州のズオン将軍が部下のキョウ・コン・ティエン(矯公羨)に殺害されるところから独立物語は始まります。父を殺されたゴクエンはただちにキョウ・コン・ティエンへの反乱軍を起こします。キョウは南漢軍へ応援を求め、南漢王はこの機に乗じて愛州を侵略しようと息子のホアンタオと1万人の軍隊を送ります。
 ホアンタオ軍は船隊を率いて海上から白藤(バクダン)河へ入り、川をさかのぼる作戦でした。938年秋、ゴクエンは宿敵キョウ・コン・ティエンを襲ってこれを殺してから、白藤(バクダン)河の入り江で南漢軍を待ち受けました。これが有名なバクダンの戦いです。
 ゴクエンはあらかじめ白藤(バクダン)河の水面下に沢山の鉄の杭をうちこんでおき、満潮時に小さな船で南漢軍の大船を襲い戦って破れたふりをして大船を白藤(バクダン)河の奥深く誘い込みました。やがて引き潮になると流れの速い潮にあらかじめ打ちこんでおいた鉄の杭が現れ、南漢軍の大船の底に杭が突き刺さり、船が転覆したり動きがとれなくなった船にゴクエン軍の小船が襲い掛かり、あっとゆうまに南漢軍は敗走してしまいました。
 939年南漢軍を破ったゴクエンはベトナムを独立させ、コロア(古螺)を都とし、自ら王を名乗り、中国からの1千年の支配に終止符を打ちました。
 その後944年にゴクエンが亡くなるとベトナムの国内は乱れ、各地の土俗がそれぞれの土地で独立を宣言するようになり、12人の主な族長がいたので、これを12使君の時代と呼びます。
 12使君の時代に終止符を打ったのはホアルウ(華閣)(今のニンビン省)に生まれたディン・ボ・リン(丁部領)です。彼はホアルウに近い紅河河口の交易港を支配していた12使君の一人チャン・ランと同盟を組み後に彼の後継ぎになり、巧みに戦いを勝ち抜きました。968年ディンボリンはベトナムの帝位につき大勝明王と名乗ります。首都をホアルウにおき、国号をダイコウビェットとしました。ディンボリンによるベトナム統一によって、ベトナムの独立は確かなものになります。

独立後のベトナム
 ゴ・クェンによって中国からの1千年間の支配に終止符を打ったわけですが、その後の国内の混乱をまとめ、12使君の時代を終了させベトナムに安定をもたらしたのは英雄ディンボリンです。
 ベトナムは中国から独立したとはいえ、すぐにでも中国から再侵略を受ける危険があり、その危険に対抗して国内をまとめて行くためには、中国の行政方法を習って国家体制を確立しなければなりませんでした。それぞれの時代に実権を握ったベトナム王朝は、中国からの侵略と常に戦って勝ち抜き独立を維持して行かなくてはならなかったのです。
 中国は自らを華人と呼び、周囲の民族を蛮夷として、自らを文化の中心と位置付けましたが、ベトナムも自らを京人とよび、国王を皇帝と呼称しました。ちなみにこの京人が後に京(キン)族という現在のベトナムの主要な民族の呼び名のもとになります。
 政治体制を中国式にするといっても一朝一夕にできたわけではなく、儒教と科挙官僚制度に基づく中国てきな中央主権体制が整ったのは15世紀の黎朝になってからのことです。それまでは比較的緩やかな集権体制で、皇帝も王座につくまでは城外で市民とともに生活し、長男が皇帝を継ぐ長子継承制度も出来上がっていませんでした。
 英雄ディンボリンはホアルウを首都に定めベトナムの統一を行いました。彼は後継ぎを長子リエンを差し置いて弟のハンランを皇太子に決めてしまいます。その上、末弟のディントゥエを衛王と決めます。これを不満に思った長子リエンは弟ハンランを殺害してしまいます。宮廷内の乱れに乗じて廷臣のド・ティェック(杜釈)がディンボリンと長子リエンを策略を使って殺してしまいます。ド・ティェックは殺害から3日後につかまり首をはねられ、まだ幼いディントゥエが帝位につきます。このディントゥエがディン王朝の最後の皇帝となります。
 幼いディン・トゥエ皇帝に代わって摂政となり実権を握ったのは、レホアン(黎垣)将軍です。秦にかわり中国を統一した宋は南のベトナムでの異変を知りこの機に乗じてベトナムへ進攻することを決めます。
 ベトナム側でも宋の大軍が進攻してくることがわかり、幼い皇帝を廃し、代わってレホアンが帝位につきます。黎王朝の誕生、980年のことです。
 981年宋軍は海陸両面からベトナムへ進攻しましたが、レ・ホアン軍に負けて退却します。レホアンはこの勝利後直ちに宋の皇帝へ使者を出し、ベトナムの領土を安堵するように訴えます。勝利にもかかわらず、このような使者を出すのはベトナムの上手な外交戦略ではないでしょうか。宋の皇帝はレ・ホアンに安南都護のくらいを送りベトナムの統治をみとめます。
 1005年にレホアンは亡くなりますが、彼は後継ぎを第3子に決めていました。これに不満を持った第5子のレ・ロン・ズィンに殺されてしまい、レ・ロン・ズィンが皇帝の座につきます。レ・ロン・ズィンは歴代の皇帝の中で一番残酷で非道な皇帝として知られています。しかし彼も1009年に亡くなり、後継者争いが起こり、リ・コンウァンによって幼帝が殺されて、黎王朝はわずか29年で滅びてしまいます。かわってリ・コンウァンが皇帝の座につきます。

 初代皇帝リコンウァンは、首都をホアルウからタンロン(昇龍)(現在のハノイ)へ移しました。また3代皇帝リ・タイン・トン(李聖宗)は国号を大越(ダイベト)とします。4代皇帝リ・ニャン・トンはわずか7歳で帝位を継ぎますが彼の時代に、宋から攻撃を受けます。
 そのころ宋の政権で力を握っていた宰相の王安石は、宋の皇帝にベトナム進攻を進言し、1074年宋はベトナムへ進攻をはじめます。

 ここで英雄リ・トン・キエト(李常傑)が登場します。幼い皇帝に代わり将軍リ・トン・キエトは政治軍事の実権を握り、文武両道に優れた彼は、宮廷内の厚い信頼を得ていました。
 宋軍の攻撃が始まる前に、リ・トン・キエト将軍は10万の大軍をもって中国領土内へ進攻し勝利を収めます。宋軍はチャンパ国やカンボジアなどの軍と協力し、ベトナム軍と対戦し、一時は首都のタンロンまで迫りますが、首都の攻防戦でリトンキエトの戦略によって大打撃を与えられ、国境地帯まで敗退します。
 リトンキエトは宋の皇帝へ和議の使節を送り、1096年に和議が成立し、再びベトナムの独立は安定することになります。
 1105年リトンキエトは70歳で没しますが、彼の功績をたたえて国公(大公爵)の位を贈られました。

 李朝最後の皇帝リ・フエ・トンは能力のない人物で、政治は人任せにし、次第に国力が減退して行きます。チャン・トウ・ド(陳守度)に強要され皇位を7歳の娘の昭皇に譲ってしまいます。チャントウドは自分の甥チャンカインを昭皇と結婚させ王位につけ実権を握ります。リ・フエ・トンは自殺してしまい、チャン・トウ・ドは李氏一族をことごとく殺害してしまいます。こうして李朝は終わりを告げます。

陳(チャン)朝 (1225年〜1413年:188年)
 陳朝になると中国に変わって元の蒙古が、侵略の脅威となってきます。元はチンギス・ハンによって13世紀にモンゴル高原に建国され、西はロシア、トルコ、ペルシャ、東は中国、朝鮮を征服した巨大な帝国です。5代フビライハンの時代に、ベトナムへ3回にわたり進攻してきました。
 はじめの進攻は1257年の暮、陳朝初代チャン・タイ・トン(陳太宗)の時代のことでした。元軍は首都タンロンを制圧しましたが、激しい暑さと食料不足で一時撤退せざるを得なくなりました。この撤退する元軍に後ろから追い討ちをかけて、徹底的に打ち破ったのが、英雄チャンフンダオ(陳興道)(チャン・クォック・トァンとも呼ぶ)です。
 二度目の進攻は3代チャン・ニャン・トンの時代でした。彼は元軍に備えて英雄チャンフンダオを全軍の総指揮官に任命しました。
 1285年1月元軍はベトナムへ進攻し各地で勝利し、首都へ迫りますが、チャンフンダオは小人数のゲリラ戦を挑み、食料を隠したりして、元軍の動きを止めから総攻撃に移り、見事元軍を撃退してしまいます。
 1286年元は3度目のベトナム進攻をはじめます。元軍は前回の失敗を踏まえて、今回は食料の輸送のために大船団を繰り出してきました。陸海両方からの進攻を開始しました。
 チャンフンダオ率いるベトナム軍ははじめに食料輸送船を襲い、陸の軍の足を止めてから、ゴクエン(呉権)の先例に習って大船団をバクダン(白藤)河河口で襲い、引き潮になったときに、あらかじめ打っておいた鉄の杭で敵の大船団が転覆するところを襲いかかり、壊滅させてしまいます。驚いて逃げる陸の元軍には、伏兵としてあらかじめ用意しておいた英雄フォングーラオ将軍率いるベトナム軍が襲いかかりこれも壊滅させてしまいました。
 元は日本へ3度目の進攻を計画していたが、ベトナムの抵抗にあって計画を中止したと言われています。
 1294年フビライハンが亡くなり、ベトナム進攻は亡くなりました。そしてその元も次第に勢力が衰え1367年に明によって滅ぼされてしまいます。
 陳王朝も、チャンゲトン(陳芸宗)皇帝の時代、皇帝が遊び好きで、部下を簡単に殺したので国内で反乱が起こり国力が衰えてきていました。
 1400年チャン・トアン・トン皇帝がレ・クィ・リにより殺害されてしまい、彼はホ・クィ・リと名を改めて自ら皇帝を名乗りました。
 この知らせを聞いた明は、陳朝の復権を口実に軍勢をベトナムへ送り込み、ホ・クィ・リを殺害しベトナムを支配下におきます。これに対抗して、陳朝の旧臣たちは陳朝の流れを汲むジャンディン帝を立てて明軍と戦いますが、ジャンディン帝は明軍につかまって処刑されてしまいます。その後ジャンディン帝の甥のチャン・クィ・コア帝を立てて再び明軍と戦いますが、これも敗れてしまいます。1413年陳王朝は明軍によって滅ぼされてしまいます。

明による支配 (20年間)
 明の永楽帝はベトナムを支配下に収めると、徹底した明への同化政策をとりました。ベトナムに明と同じ行政制度を施行し明の政治を村落まで徹底させました。また税制も以前にましてきびしくし、土地税、人頭税、軍役や労役も課しました。またベトナム独自の文化や風習を禁止しすべて明に同化させました。このため、再びベトナム人の明への反抗の機運が高まります。
 明による支配に反乱を起こし、再びベトナムへ独立をもたらしたのは、英雄レ・ロイとグエン・チャイです。グエンチャイはもともと父とともにホ・クィリの政権で科挙試験に合格し役人として使えていた人物です。明の進攻を受け父とともにつかまり、父は明へ連行され、グエンチャイは逃走しベトナム国内を10年間放浪します。
 1416年にタインホア省ラムソンのルンニャイ村で土豪のレ・ロイが反明軍の蜂起をしたときに、反乱の戦略書を携えてレ・ロイの同志になります。そしてグエンチャイはレ・ロイの軍師として、また政治顧問として活躍します。
 10年間の苦しい戦いを戦い抜き、1427年に明の永楽帝が亡くなり明軍の勢力が衰えた機に乗じて、1427年ついにレ・ロイ軍は明軍をベトナムから追い出すことに成功します。

黎(レ)朝 (前期:1428〜1527年、後期:1533〜1788年)
 レ・ロイは明軍に勝利すると、明軍の捕虜2万人と取り残されて城に篭城した兵9万人を、グエンチャイの進言を聞いて追い討ちせずに明へ送り返します。そしてすかさず明と和睦を行い、明へ毎年朝貢するする約束を行い、安南国王の称号を受けます。
 レ・ロイは1428年4月に皇帝を即位し国号を大越としました。レ・ホアンの黎朝に対しレ・ロイの黎朝は後黎朝とよばれます。 グエン・チャイは侯爵の位を受け内務大臣として活躍し、疲弊したベトナム国内の改革を行い、国をたてなおすことに貢献しました。

 レ・ロイは1433年に48歳で死去し、帝位を11歳の幼い孫のレ・タイ・トン(黎太宗)が継ぎます。そのレ・タイ・トンの教育係としてグエン・チャイが選ばれます。このころ宮廷内は幼い幼帝を巡って権力争いが絶えず、レ・タイ・トンは20歳のときにグエンチャイの家に出かけたとき、陰謀によって殺害されてしまいます。罪を着せられたグエンチャイは処刑されてしまいます。1442年のことでした。

 黎朝4代のレ・タイン・トン(黎聖宗)は、北の大国の明とは巧みな外交戦略で和平を保ち、南のチャンパ王国と西のラオスへは進攻して領土を広げるなどの活躍をして外圧を制しベトナム国内を安定させ、ベトナムの中興の祖と呼ばれています。
 1471年レ・タイン・トンはチャンパを攻撃し、首都のチャバン城を陥落させ、チャ・トアン王を殺害します。これによりベトナムは中部地域を支配化に置き、チャンパ王国は次第に勢力を失ってゆきます。
 1479年には西のラオスを攻撃し、インドシナ半島の中央にあるチャンニン高原を占領し、支配します。
 レ・タイン・トンが国内で行った改革は、国内を13の道に分け細かく行政区分を分けたこと。3年毎に戸籍調査を行ったこと。土地制度の基盤である「公田制度」を作ったこと。法律である「洪徳律例」を作ったことなどがあります。

 1505年に即位したレ・ブィ・モク皇帝の時代に黎朝のベトナムは乱れました。彼は酒浸りで、さからう者は即座に殺してしまう残酷な皇帝だったので、いとこによって反乱を起こされて、自害させられてしまいます。彼の後継者争いで、宮廷は大きく乱れます。その中で巧みにレ・ブィ・モク皇帝の軍総司令官だったマック・ダン・ズンは権力の実権を握ってゆき、最後の皇帝統元帝に迫って帝位を譲り受け、1527年に皇帝の座についてしまいます。
 統元帝とその母親はマック・ダン・ズンによって幽閉され自害させられてしまいます。これにより前期黎朝は中断することになります。

南北の抗争、チン氏とグエン氏の戦い
 マック・ダン・ズンによって帝位を奪われた黎朝の旧臣たちは、王宮から逃げ出し各地で反乱の兵を起こします。黎朝の旧臣のグエン・キムはラオスに逃げ光紹帝の子レ・チャン・トンを見つけ、ラオスで即位させます。その後、明へ使いを送りマック氏を撃つことに協力するように要請しますが、明はマック・ダン・ズンを安南都統使に封じてしまいます。これによりマック氏は1527〜1592年の5代65年間続くことになります。(このあたりは分かりづらいところですが、黎氏も皇帝を名乗りマック氏も皇帝を名乗り、二人の皇帝が同時に存在していることになります。)

 1543年レ・チャン・トン帝はタインホアからマック氏反撃の兵を出しタンロン城へと迫りますが、策略によってグエンキムが殺されてしまい、マック氏の殲滅はできませんでした。
 レ・チャン・トンは亡くなったグエン・キムの代わりにチン・キエムを軍総司令官に任命します。グエンキムの息子グエン・ホアはチン・キムに快く思われていないため、策略を使いレチャントン帝へ申し出て中部のフエに防御のためにと偽って本拠地を移動してしまいます。

 1592年にチン・キエムはマック氏を破りタンロン城へ入城し権力の座に座ります。
 1627年、チン氏はフエにいるグエン氏に租税を納めるように要求しますが、拒まれたために兵を出します。北緯18度線付近の中部の山脈が海へ突き出してきているあたりにあるジャン河を挟んで戦線は膠着状態が続きました。これ以来チン氏とグエン氏の南北の抗争が長く続くことになります。。

広南グエン氏と西山グエン氏
 フエを本拠に北のチン氏と対抗してきた勢力を広南グエン氏と一般に呼びます。ベトナムにはグエンの姓が多いので区別のためにそのように呼んでいるのです。
 一方の西山グエン氏はビンディン省タイソン(西山)郡出身の、グエン・バン・ニャックと、グエン・バン・フエ、グエン・バン・ルウの3兄弟で、広南グエン氏の政治の乱れに乗じて1771年に反乱を起こし、広南グエン氏を追い詰め、最後の生き残りのグエン・フック・アインをタイ湾に浮かぶフーコック島にまで追い詰めてしまいます。

 追い詰められたグエン・フック・アインはタイ湾の小島を転々と逃げ、タイへ逃れます。その後タイ軍と共同作戦で、西山グエン氏とメコン河のミトー付近で戦いますが、西山グエン氏のグエン・フエにさんざんに破られてしまいます。1785年、メコン河の戦い。

 南の戦いで勝利したグエン・フエは、北進し紅河デルタ地帯タンロン城へ進攻し、チン氏の勢力を駆逐し、無力化していた黎朝の皇帝の権威を復活させます。
 ところが、グエン・フエ軍が中部へ引き返した後で黎朝の皇帝は中国の支配者である清の軍をタンロン城へ入れしまい、清国の軍事力を後ろ盾にして勢力を復活させようとします。しかし結果は清の官僚に実権を握られてしまうだけとなりました。
 この知らせを聞いたグエン・フエは直ちに兵をタンロン城へ向けて出発し、清軍と戦いこれを破ってしまいます。グエン・フエはすかさず清国と和睦を結び、清へ逃げていた黎朝最後の皇帝レ・チュウ・トンはむなしく1793年に北京で死亡し、黎朝は終わりを告げます。

広南グエン氏の全土統一と外国勢力の台頭
 ベトナム南部の地域は15世紀にレ・タイン・トンに攻められてチャンパ王国の勢力が減衰すると、広南グエン氏の時代にベトナムは次々と南部デルタ地帯を手に入れてゆきました。1757年にはカンボジア国内で内乱が起こった隙に、現在のベトナムの南部の領土をすべて占領してしまったのです。

 メコン河の戦いで破れた広南グエン氏のグエン・フック・アインはタイ国内にいましたが、1787年西山グエン氏の3兄弟が争っているという報告を聞くと、フランス人宣教師のアドラン司教の力を借りて、フランス、イギリス、タイ、カンボジアの諸外国の力を借りた軍勢でベトナム国内へ戻ります。
 1788年サイゴンを奪回します。1801年には広南を奪回、ホイアンを制圧します。1802年タンロン城へ入城、西山グエン氏を駆逐します。
 タンロンを陥落した後、グエン・フック・アインは清国へ使者を送り清の嘉慶帝から印を賜り、越南(ベトナム)の国名を認めてもらいます。
 現在のベトナム国土全土をはじめて統一し支配したのは、グエン・フック・アイン(ジャロン帝)でした。そして、その後の1世紀にわたるフランスの植民地時代のきっかけを作ったのもまた彼がベトナム統一に外国の力を借りたことに起因します。

 清国では1840〜1842年にアヘン戦争が起こりました。
 1884年6月8日、12歳の幼帝ハムギ帝は、フランスとの間にフエ条約を結び、ベトナム全土はフランスの植民地となりました。 グエン朝は13代バオダイ帝まで続きますが、ハムギ帝以降はフランスの傀儡政権と化しました。

フランスによる植民地化
 ベトナムにキリスト教の宣教師がはじめて訪れたのは16世紀のことでした。1615年にはベトナム中部のホイアンに伝導教会が建設されています。
 フランス人宣教師アレクサンドル・ドゥロードは1624年にベトナムへ来ましたが、ベトナム語をとても上手に話したそうです。当時ベトナム語は漢字を使って表記されていましたが、彼はそれをローマ字を使って表記する方法を考案しました。これが現在も使われているベトナム語の表記方法コックグー(国語)の始まりです。

 グエン王朝を開いたジャロン(嘉隆)帝グエン・フック・アインは西山グエン氏に戦いで敗れてタイへ逃れていたときに、フランス人宣教師アドラン司教と出会い、西山グエン軍を破ってフエの王朝を開くきっかけを作りました。1784年グエン・フック・アインはアドラン司教に息子を預けフランスへ送り軍事援助を頼みます。結局はフランスの援助はもらえなかったけれど、アドラン司教の個人的な援助で軍勢を整えて、外国勢力の援助で西山グエン氏を滅ぼし、フエで皇帝に即位しグエン王朝を開きます。

 フランスに友好的だったジャロン帝は1819年57歳で死去しますが、その後を継いだミンマン(明命)帝はジャロン帝とは正反対にベトナム国内から徹底的に外国勢力を駆逐する政策をとります。日本の尊皇攘夷思想も儒教からきていますが、ベトナムのミンマン帝も同様に儒教にしたがって国内から外国勢力を追い払います。このころの日本やベトナムでは儒教思想がもっとも一般的で、ベトナム政府も儒教の思想に基づいた外国勢力の国内からの駆逐する政策が主流の考え方でした。1833年1月6日にキリスト教を禁止する勅令を出し、国内でのキリスト教の布教を禁止し、信者は死刑、教会は破壊する通達をだします。
 その後にフランスに植民地化された原因が、外国勢力の力を借りたジャロン帝の責任なのか、鎖国政策をとって外国の進んだ産業をとり入れずに国力を削いだミンマン帝なのか議論が分かれるところです。
 ミンマン帝は1841年に死去、テェウチ(紹治)帝(1841〜1847)が後を継ぎます。ちょうどそのころ中国でアヘン戦争が起こります。清国での阿片取り締まり強化に端を発したアヘン戦争は、1840年〜42年にかけて清とイギリスの間で戦いが行われ、結局戦争に負けた清は南京条約を結び、香港を割譲し多額の賠償金を払わされます。このアヘン戦争がきっかけとなり、英国とフランスのインドシナへの政策が強硬路線へと変わって行きます。

 1847年2月26日フランス軍艦エロワースがダナンへ入港し、ベトナムで逮捕され死刑宣告を受けたフランス人宣教師5人の釈放を要求します。テェウチ帝はフランス軍の要求を受け入れて宣教師5人を釈放したので、軍艦エロワースはダナンを去ります。
しかし4月15日別のフランス軍艦グロワールとビクトリユーズがダナンへ入港し、すでに釈放済みの宣教師5人の釈放を要求、ダナン港に停泊中のベトナム軍艦を砲撃し5隻を撃沈してしまいます。ベトナム政府はこの事件に激怒しますが、フランス軍に対抗する軍事力がなく、結局泣き寝入りするしかありませんでした。テェウチ帝はこの年の11月に死去してしまいます。後を継いだ第4代皇帝のトゥドゥック帝(1847〜83)は外国勢力に対する強硬姿勢を強め、フランス人宣教師2名を死刑にしてしまいます。
 この事件を受けて1858年フランスのナポレオン3世はフランス軍艦隊をベトナムへ派遣します。8月31日フランスとスペインの連合艦隊がダナンに入港しダナンを占領してしまいます。1859年にはブンタウから進攻して南部ベトナムを占領します。
 1862年6月5日にベトナムとフランスは講和条約を締結し、ベトナム側はフランス人宣教師の布教活動を認めること、コーチシナ東部の3省とプロンドール島をフランスへ割譲すること、多額の賠償金を払うこと、ダナンとクァンイェンの港を開港することを認めさせられてしまいます。

 1883年7月16日に対外強硬路線のトゥドゥック帝が死去するとフランスは後を継いだヒェップホア(協和)帝に迫って、フランスがベトナムの保護国になることを認めるアルマン条約を結んでしまいます。
 フランスよりのヒェップホア帝はそれがもとで在位4ヶ月で毒殺されてしまいますが、後を継いだキェンフック(建福)帝も半年で毒殺されてしまいます。そんな混乱の中で12歳のハムギ帝が即位します。

 1884年6月6日にフエでハムギ帝とフランス公使パトノウトルがパトノウトル条約に調印します。フランスはベトナムの保護国であること、フランスは外交関係においてベトナムを代表すること、フランスを代表する総督はベトナムの外交を統括し、保護権を行使する、などの項目で、ベトナムが完全にフランスの植民地になることを意味する条約でした。
 翌1885年7月5日パトノウトル条約を結んでも一向に条約に従わず、無視したままのベトナム軍とフランス軍がフエで交戦します。この戦いでベトナム側が敗れてしまい、ハムギ帝は王宮を脱出し国境の少数民族の村に3年間隠れ住む生活を送ります。その後1888年11月にフランス軍に発見され逮捕、アフリカのアルジェリアに流刑され、その後の一生をアルジェリアの流刑地で過ごすことになります。

ハムギ帝のいなくなったフエでは、フランス軍により新帝ドンカイン(同慶)帝が即位しますが、わずか4年で死去してしまいます。次のタインタイ(成泰)帝とズイタン(維新)帝はフランスに対するクーデターを起こして失敗し、アフリカのレユニオン島に流刑にされてしまいます。次のカイディン(啓定)帝は10年で死去、その後にグエン朝最後の皇帝バオダイ(保大)帝が1926年に即位し、1945年のベトナム民主共和国の成立とともに退位し143年間の王朝の歴史に幕を下ろします。

フランスのベトナム統治
1887年10月17日フランスの大統領令により、インドシナ全域を総督が統治することになり、殖民大臣のもとに、フランス領インドシナ総督府を置きました。この総督府のもとに、ベトナムはフランスへの徹底した同化政策と理不尽な重税を嫁せられ苦しむことになるのです。
・それまで使用していた漢字表記をローマ字表記(コックグー)に変えさせられます。
・ 教育制度の変更。フランス語の履修や、ベトナム独自の文化を否定されます。
・アルコールの製造販売をフランスが独占し、ベトナムで伝統として各家庭で作られてきた自家製のアルコール(どぶろく)は禁止。また村毎にアルコールの消費量を割り当てられて強制的に消費させられました。アルコールの値段は5倍になり、フランスは暴利をむさぼります。
・塩の専売権をフランスが独占。塩の値段が5倍になり、市民生活が困窮しました。
・阿片の販売をフランスが独占し、値段を倍に、阿片吸引者は3倍になりました。
・開墾した土地をフランスの入植者に勝手に分け与えてしまいます。

フランスの統治は、フランスの官僚が何でも言うことを聞くベトナム官僚を使って統治する方法がとられ、ベトナム市民は非常に苦しめられ、さまざまな反発や反乱が頻発しました。

1899年4月15日フランスはイギリスが後ろ盾のシャム(タイ)からラオスの宗主権を奪い、コーチシナ(南部ベトナム)、トンキン(北部ベトナム)、アンナン(中部ベトナム)、カンボジア、ラオスのインドシナ連邦を植民地化することに成功します。

 1940年にはフランス統治下のベトナムに日本軍が進駐してきます。しかし、1945年8月15日太平洋戦争が終結し、ベトナムを占領していた日本軍が連合国に無条件降伏すると、8月16日ベトミンは総蜂起し9月2日にホーチミン主席がベトナム民主共和国の独立宣言を行います。
 しかしながら9月23日にはフランス軍がサイゴンを占領し、翌年1946年にはインドシナ戦争が始まり、その後の泥沼のベトナム戦争へとつながって行くのです。

 1945年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言によって、ベトナムは一応独立したものの、フランス政府はあくまでベトナムを元の植民地に戻し、戦争で失われた自国の国力を取り戻そうとしました。
9月23日にフランス軍はサイゴンの人民政権へ攻撃をしかけます。翌1946年3月18日フランス軍はハノイへ進駐、6月1日には南部ベトナムにコーチシナ自治共和国を樹立します。11月20日フランス軍はハイフォンでベトミンを艦砲射撃で攻撃し6000人のベトナム人の命を奪います。これに対して12月19日ベトミンは全国で反撃を開始、第1次インドシナ戦争の始まりです。

 1949年6月14日フランスはベトナム国を樹立しバオダイ帝を立て傀儡政権を作り上げます。これに対して設立まもない中華人民共和国がホーチミンのベトナム共和国を1950年1月18日に承認し、1月31日にはソ連のスターリンも承認します。ここに、ベトナム国内の上に、資本主義国家対社会主義国家の構図が描かれることになります。そして、それまでインドシナ情勢には消極的だったアメリカが2月7日にイギリスと共にフランスの作ったベトナム国を承認し、3月19日には米空母一隻と駆逐艦2隻をサイゴンへ派遣しベトナム人民軍と交戦することになります。そして8月2日には米軍事援助顧問団(MAAG)がサイゴンにできます。
 これに対しベトナム人民軍は、1951年11月19日から翌年の2月にかけて大規模な攻勢をかけハノイの北の大部分の地域を制圧してしまいます。1953年11月20日にはフランス軍がジャングルに潜むベトナム人民軍の物資補給経路をたつために、ハノイの北方でラオスとの国境地帯にあるディエンビエンフーへ降下部隊を投入し、占領して要塞を建設します。
翌年1954年3月にベトナム人民軍は不落といわれたディエンビエンフー要塞を攻撃し5月7日に陥落させてしまいます。これによって北部ベトナムでのフランス軍の力は徹底して弱まってしまいました。
 5月8日にはインドシナ休戦協定に関するジュネーブ会議が開かれ、約3ヶ月かけてジュネーブ協定が調印されます。7月21日のことです。ジュネーブ協定では、ベトナムの主権と独立を認め、北緯17度線で南北に分割することが決められました。

 フランスに変わりベトナムに影響力を持ったアメリカは北の社会主義に対抗すべく、反共産主義者でクリスチャンのゴ・デェン・ジェムを擁立しジェム政権を樹立します。1955年10月26日国民投票が行われ、バオダイ帝が退位し、ゴ・ディン・ジェムが大統領に就任し、ベトナム共和国が成立します。

 1961年ジョンFケネディが米国大統領に就任すると、それまでキューバ革命の成功や宇宙開発での有人宇宙飛行などで、ソ連に一歩遅れをとっていた米国を立て直そうと、キューバやベトナムなどの第3世界への軍事介入をアメリカは強化するようになります。
 1961年には南ベトナムへの駐留米軍の数は3200人になり、翌年にはそれが11300人になります。1963年の南ベトナムでは、独裁的な政治を取り出したジェム政権へ市民からの批判が強まり出しました。ジェム政権は仏教徒の弾圧を行い、そのために寺院の僧侶が広場でガソリンをかぶって焼身自殺を計るなどの抗議がおこり、11月1日クーデターによりジェム大統領は殺害されてしまいます。
 あとを受けて副大統領のグエン・ゴク・トが大統領に就任します。この新政権を米国は承認しました。
 11月22日にはこんどは米国でケネディ大統領が暗殺されます。代わって副大統領のジョンソンが大統領に就任します。
1964年にはジョンソン新大統領は、ベトナムへの介入をますます強めて行きます。
 1月30日に南ベトナムで軍事クーデターが発生しグエンカーン将軍が権力を掌握します。8月16日にはカーン将軍は大統領に就任します。
 8月2日に米軍駆逐艦マドックスと北ベトナムの哨戒艇がトンキン湾で交戦し、米軍は報復措置として北爆(ハノイへの航空機による爆撃)を行います。この事件によって本格的なベトナム戦争へと突入して行くことになります。

 1965年米国の選挙で勝利したジョンソン大統領はベトナムへの軍事介入をさらに強化します。この年は、北ベトナムへのローリングサンダー作戦をはじめ、米海兵隊のダナン上陸、B52の南ベトナム解放区への爆撃、北爆の強化、南ベトナム解放戦線によって占領された南ベトナム領内への枯葉剤の散布など、ベトナム戦争は泥沼化して行きます。

 1968年1月30日の南ベトナム解放戦線のテト攻勢が開始され、サイゴンのアメリカ大使館の一部が占領されます。このころから南ベトナム軍は劣勢になって行きます。年末にはニクソンが米国選挙に勝利し、大統領に当選します。ベトナム戦争でのアメリカ軍戦死者の数は3万人を越します。

 泥沼にはまったベトナム戦争から抜け出せず、反戦世論の風も強まった中、パリでアメリカのキッシンジャー補佐官と北ベトナム側のレ・ドク・ト特別顧問の間で平和交渉が進められ、紆余曲折の末に1973年1月27日「ベトナムにおける戦争と平和の回復に関する協定」に米国、サイゴン政権、ベトナム民主協和国、臨時革命政府(南ベトナム解放戦線)の4者が調印をし停戦協定が成立します。3月29日ニクソン大統領はベトナム戦争終結を宣言し、米軍は南ベトナムを撤退します。
 この後は、南ベトナム政府軍と北ベトナム軍のベトナム人どうしの戦争ということになりますが、1975年4月30日、北ベトナム軍はサイゴンへ入り、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は無条件降伏をし、長く泥沼だったベトナム戦争は終結します。

略史
紀元前111年 前漢、ベトナム北部に交趾、九真、日南の三郡を置く
938年 五権、白藤江で南関軍をを破る(中国からの独立)
980年 前黎王朝の成立
1009年 李王朝の成立、首都をタンロン(現在のハノイ)に定める
1225年 陳盗聴の成立
1428年 後黎王朝の成立
15世紀末 黎王朝がテャンパ王国を攻める
16世紀 ホイアンの日本人町が栄える
1802年 阮王朝の成立、首都をフエに定める
1858年 仏越戦争
1874年 フランスがコーチシナ全土を直轄植民地とする
1884年 ベトナムがフランスの保護国となる
1885年 清がベトナムへの宗主権を放棄(清仏戦争の結果)
1887年 フランスがインドシナ総督府を設置
1905年 東遊運動:ベトナム青年の日本留学運動
1930年2月 ベトナム共産党結成
1940年9月 日本軍の北部仏印進駐
1941年5月 ベトナム独立同盟結成(ベトミン)
1945年3月 日本軍、仏印軍を武装解除
1945年9月2日 ベトナム共産党ホーチミン主席、「ベトナム民主共和国」
1946年12月 インドシナ戦争
1954年5月 ディエンビエンフーの戦い(対フランス)
1954年7月 ジュネーブ休戦協定、17度線を暫定軍事境界線として南北分離
1964年8月 トンキン湾事件
1965年2月 アメリカ軍による北爆開始
同年3月 アメリカ軍海兵隊、ダナン上陸
1968年1月 テト攻勢
同年5月 パリ会談始まる
1973年1月 パリ平和協定、アメリカ軍の撤退
1973年9月21日 日本との外交関係樹立
1975年4月30日 ベトナム共和国政府無条件降伏
1976年4月 統一選挙実地
同年7月 南北統一、国名をベトナム社会主義共和国に改称
1978年12月 カンボジア紛争(ベトナム軍のカンボジア派兵
1979年2月 中越戦争
1986年 第6回党大会において、ドイモイ政策が公式に採用される
1989年9月 カンボジア駐留ベトナム軍撤退完了
1991年10月 カンボジア平和パリ協定
1992年11月 日本の対越援助再会
1995年7月 アメリカとの国交正常化
1995年7月 ASEAN正式加盟
1998年11月 APEC正式加盟